北陸大教会について

福井県小浜市にある天理 教の教会です。北陸大教会の道は、明治23年(1890年)5月、福井県下若狭国大飯郡佐分利村(現在の福井県大飯郡おおい町)にて天理教北陸支教会としてはじまりました。天理教の教えをもとに、日々神様に生かされている喜びを感じながら、皆が助け合って暮らす世の中を目指して活動しています。
北陸大教会とは

教会につながる人々
当教会には常時20名ほどが住み込み人として在籍しており、毎日教会活動に従事しています。長年教会内で勤めている方もあれば、短期的に教会に住み込む方もおられます。この他に、近所から参拝に来られる信者さんや、はるばる県外、あるいは海外からお越しになる方々も大勢おられ、日々さまざまな方が出入りされています。

北陸大教会は、誰でも自由に参拝できます。初めて来る方もどうぞお気軽にお越しください。参拝作法、簡単な教理説明などが聞きたい方は、神殿内に詰員がおりますので、一言声をかけていただければ対応いたします。悩み相談、その他お問い合わせなどありましたら、コチラからご連絡ください。
参拝してみる
歴史・沿革
『天理教事典 教会史篇』より
草創期の人々
郡山大教会の前身である天龍講が結成された明治19年(1886)に、沢田重左ヱ門は講長平野楢蔵の導きで入信し、21年6月頃より福井県若狭地方に布教に出た。この時に蒔かれた種が、同23年5月2日、北陸支教会として芽を出し、北陸大教会に成長するのである。
沢田重左ヱ門は、郡山大教会初代会長平野楢蔵の伯父にあたり、山城国愛宕郡白河村で、精米や酒屋などを業としていた。明治21年春、若狭国青郷村音海から白河村へ石工に来ていた五左ヱ門という職人が、重左ヱ門から教えを聞き、「自分の郷里には病人が沢山居るから布教に行ったらどうか」と勧めた。どこか遠方へ布教に出たいと思っていた矢先でもあり、早速若狭へ旅立ち、五左ヱ門の家に草鞋の紐をといて布教を始めた。
福井県大飯郡佐分利村三森の岩崎要三郎は代々農業を営み、昔は左近屋(さこや)と称して庄屋筋の家柄であった。父の左吉は長年持病の癪(しゃく)に苦しみ、要三郎の伯母の家が医者であったから医薬の限りを尽したが思わしくなく、「一度天理さんに頼んでみては…」と重左ヱ門を迎えたところ、あれほど苦しんだ癪も鮮やかに快癒した。続いて、要三郎の布教により、父左吉の次第にあたる岩崎源右ヱ門(後の北陸支教会初代会長)も妻なつの風毒を鮮やかに助けられて入信した。
同じ頃小原一家も呉服商をしている従兄の魚住紋平の案内で訪れた重左ヱ門から神様の話を聞き入信した。小原家の長男常太郎は生来病弱で、その上17歳の時実母の急死に会い、淋しさも重なって身体が一層悪くなった。そんなことから行者参りや修験者に身を投じたりしたが一向に良くならず父甚五兵衛も心配していた時であったので、重左ヱ門から聞く「教祖のひながた」の話に感激して親子共々一層求道心を燃え上がらせた。
この頃には重左ヱ門は乞われるままに岩崎源右ヱ門宅で布教を開始し、佐分利村を始め近隣の町村に教勢が伸び、多くの熱心な信者ができ、明治22年7月、郡山分教会初代会長平野楢蔵が巡回して熱心に教えを伝えた。明治23年初め頃には、夕勤めに集まる信者が源右ヱ門宅に入り切れぬ程に伸展したので、重左ヱ門は三森講と部属の講社を源右ヱ門に委ね丹波丹後方面へ布教に赴いた。この布教により、後に山陰、谿羽両支教会の設置を見ている。
明治23年4月三森講では教会設置の機運が熟したので、源右ヱ門宅の隣接地を買収の上、教会本部へ願書を提出、同年5月2日付岩崎源右ヱ門を会長として北陸支教会設置を許された。設置当時の教勢は殆ど若狭地方を出なかったが、数多くの者が白熱的布教を展開し、仏教王国と称される福井、石川、富山、新潟の各県へ単身布教に乗り出した。たとえば、越前地方へ岩崎久蔵、岩崎弘英、小谷儀助、加賀地方へ前野治良吉、岩崎栄太郎、白木万蔵、大栄元太郎、越中越後方面へは赤松嘉右ヱ門、岩崎亀蔵、中本彦右ヱ門、小原常太郎の人々が赴いた。
早くより入信し既に布教に歩いていた小原家が家財一切を売り払い、一家を上げて小浜町で布教を始めたのも明治24,25年頃のことである。移転に際しては、「小原はとうとうだまされよった。阿呆や馬鹿や」と言いはやされたので、年老いた祖母の心境が気掛かりであったが、「男が一度決めたことは、どこまでもやり抜かねばいかん」という祖母の言葉に感激した。一家6人は誰1人不足を言うものなく割箸造りの内職をし、祖母は生涯糸紡ぎをして布教を助けた。父甚五兵衛が草創期の北陸支教会の艱難の道中に内を治める上に勤め切ってくれたので、常太郎は安心して遠く北陸路を飛び回って布教することが出来た。
困難な時代
こうして多くの人々の熱烈な布教により、明治29年の教祖10年祭までに22カ所の教会が設置されている。しかし教祖10年祭が執行された直後、内務省から秘密訓令が出され教内は大打撃を受けた。北陸部内の教会にも深刻な影響を与え、さらに支教会では、神殿を始めとする建築に要した負債が逐年累加して、財政上に致命的な行き詰りを招いた。
これには郡山分教会の平野会長も心を痛め、三森まで足を運んで種々と苦心された。この時小浜の小原一家の布教地にも泊った。赤貧の真只中であったが、「なんとか土産を持って帰ってもらいたい」と、夜半中小浜の町をさまよい歩いて下駄屋の店先にころがっていた大きな木の根をもらって来て磨きをかけ土産がわりにした。平野会長は、その親を思う真実に大変喜ばれ、「これは小原さんのどん底時代の土産や」と言うて、火鉢にして大事に使っていた。この時平野会長は、将来の発展を考えて、当時小浜町に設置されていた雲浜出張所と三森の支教会とを相互移転してはどうかとの提案をして手続きを進めたが、結局これは不成立に終った。
一方教会の負債はますます多額に達し、債権者の督促も日を追って厳しさを加えて来たので、役員や信者たちは次々と寄り付かなくなり、遂には支教会の土地建物を債権者の手に委ねるという悲運に追い込まれ、解散同様の事態に陥った。ここにおいて、会長岩崎源右ヱ門は、郡山分教会を通して辞任を申し出て、この難局の治め方を上級教会に委ね、明治33年9月22日付で郡山分教会役員増田亀治郎が2代会長に就任した。
亀治郎は早速小浜へ旅立ち、27日には小浜町近郊の西津村二ノ辻30番地に支教会の「お目標」を遷座した。そこは小原一家の布教地であった。自分達の布教地が今になってこのように役立つとは、夢にも思わなかったと感激し、身が引き締る思いであった。西津村に移ってからは、以前の信者達は寄りつかなくなり、困難はその極に達した。このどん底時代に、僅かに小原親子及び初代会長の養子である岩崎弘英が会長と共に「たすけ一条」の道を歩んだ。2代会長は、郡山分教会役員でもある上、病気であったので、支教会では常太郎が中心となって教務が進められた。
明治35年秋には、小浜近郊の雲浜村作園場へ仮移転した。明治39年教祖20年祭頃まで、不振のどん底時代が続いた。明治38年1月13日には2代会長が出直し、続いて支教会に尽した小原甚五兵衛も出直した。そこで同年3月19日付で郡山分教会長増田甚七が、3代会長を兼務することになったが、その立場職責からいっても甚だ無理なことで、部内教会や信者の修理、教会の復興及び治め向きは、常太郎が副会長となり岩崎弘英と共に担当せねばならなかった。
その後支教会は次第に活気を取りもどし、明治39年11月24日、本部の許可を得て、雲浜村竹原第17号17番地の1に土地家屋を求めて移転した。明治40年6月17日郡山分教会初代会長出直しにより、増田甚七会長は郡山分教会長の職に専念するため辞任したので、入信より一貫して北陸路布教に歩きづめ、支教会の縁の下の力持ち的役割で尽し切った副会長小原常太郎が、同年9月9日付で4代会長に就任した。北陸大教会の礎石はここにしてようやく固まった。
不思議な御守護
19歳で入信した常太郎は、平野楢蔵郡山分教会初代会長の「ここ2・3年で世界中を天理教にするのや」と明るく語る信仰信念を心底から身につけ、勇みに勇んで布教に歩いた。しかし仏教王国として知られた北陸路の人々に、大和の神様の姿を映すことは容易ならんことで、いたる所で攻撃にさらされた。明治25年3月3日「おさづけの理」を拝戴し、北へ北へと各地を歩いた。攻撃されればされるほど、少しもひるむどころかその度毎に勇み立ち一層布教に励んだ。陸前に出かけた時は、継母の死目にも会えず、加賀では竹槍の大迫害に会った。その中でも富山は彼が最も苦労を重ねた所で、明治27年9月1日付で富山布教所を設置した。
富山市五指町で布教中の出来事である。隣家の内儀が痔病で苦しむ病人に「においがけ」してくれた。早速その者に身の内の話を説き聞かせ、「おさづけ」を取次ぐと、見る見る内に膿汁が噴き出して、さしもの痔病も1週間足らずで全治した。病人は非常に喜んで、自ら若い娘を連れて来た。可哀想にもその娘は耳が不自由で話もできなかった。さすがに常太郎もふと心に迷いを生じたが、それでは申し訳ないと、一心不乱、三日三夜のお願いをかけた。2日目に数が言えるようになり、3日目には、いろは48文字が言えるまでになった。4日目には娘の家族たちが馳せつけ、娘のようすを目前に声も出し得ず、嬉し泣きに泣くばかりだった。これぞ奇跡といわずして何であろうか。たちまちにして、「五十指町に若い生神さんが来た」という評判が立ったのも無理ではない、それを聞いたといって、富山市外月岡村の有名な某祈禱師の所から、常太郎の布教所へ転向する者が次から次へと現れた。
事実それらの者はみな身の内の話で立派に助かった。乳の出なかった婦人などはお話をしているうちに乳汁が飛び出して常太郎の着ていた羽織が台なしになった。子宮癌が助かる、手足の不自由なものが動くようになる等々の不思議な霊救に、誰しも感動せずにはいられなかったのである。
しかしこの素晴らしい現象は土地の医師や神宮、特に僧侶達の大反対を受けねばならなかった。彼等は、前述の祈禱師を使い、彼に悪名とどろく俠客を帯同せしめ、常太郎に論難を浴びせかけて来た。彼等は布教所へ踏み込むなり怒声一番、「どこの馬の骨か分からんくせに、人の病人を横取りするとはけしからん、陳謝すればよし、さもなくばその筋に訴えるぞ」と脅喝した。
常太郎も負けてはおれず、偶然おたすけ中の10歳ばかりの子供が来合わせていたので、「私が取ったのではない、貴方達の所ではどうしても助からんから、勝手にこちらへ来ているだけだ。私達の神様は、元ない人間をこしらえた元の神であるから、人間の身体はどうにでもして下さる。貴方達が助けられるのならこの子の足を今直ぐここで治してやって下され、もし治ったら貴方達に謝まろう」と言い切った。
もとより常太郎は真剣だったのである。2人の侵入者は黙々としてたじろぐのみ、常太郎は一心に親神を念じつつ、「では私が親神さんに願うてみる、もしこの足がこの場でたすかったら、これよりは私と共に親神様のお手伝いをせよ」と言って、朗々と「おさづけの理」を取次いだ。その時だった。子供の曲った足に音がしたのである。そしてその足が、次に鮮やかに伸びた。「見よ、これが真実誠の神様のお姿や」と、当の常太郎も全身全霊の震えが止まらなかった。それは全く奇跡としか言いようのない光景であった。勢い込んでいた2人は、呆然として立ちすくんでしまった。その俠客は、引き返すなり詫状を届けて来た。「此度、我等が彼是申せし儀、今以て思案致しつつ誠に申訳なく存じ候、以後かかる事は申さず候、依而詫如件」。このことが、世間をさらに驚かせ、「おたすけ」はどんどん上がった。そして彼は、飛騨高山、越後、羽後陸前へと足を伸ばしては布教に励んだ。
その後の教会の発展
明治39年に雲浜村へ移転した当時から、支教会のお目標は会長宅の奥座敷に祀ったままであったが、同41年に至って支教会隣接の土地建物を買収の上、神殿30坪(99㎡)の建築に取掛り、同年10月に落成した。翌11月に天理教は一派独立し、教会制度の上にも諸般の改革を見た。同44年1月30日、北陸支教会は北陸分教会と改称した。この時、部内教会は26カ所であった。北陸分教会では大正2年(1913)9月から10月に亙って、北陸分教会教師講習会を開催し、一派独立に伴う新教典の趣旨徹底と、それに基づく部内教師の精神作興を促すのが目的であった。教祖30年祭(大正5年)は、一派独立教派として天理教一色に塗られた祭典であり、北陸分教会としても本部の神殿建築などの上に勇んでつとめた。
大正7年暮、4代会長夫人はる(婦人会北陸初代委員部長)は思わぬ官憲の圧迫に出会った。ある日教会を訪ねて「おたすけ」を乞う者があった。たまたま居合せた夫人は、早速いろいろと教理を取次ぎ懇切に手引きをしたところ、数日後に彼は喜んで若干の金を包んでお供えとして神前に献納した。ところが数日後、警察に出頭を命じられ病人に祈禱、符呪(おさづけを取次ぐ)をなし神水を与えたるは医療を妨げる行為である、と大正8年4月1日より6カ月間獄中につながる身となった。
獄中からの便りに、「御越し下された先生(増田郡山会長)より神様の御教理に預り、誠に有難く、此の御聞かせ下された御教理は確かに心に治めまして、日々心に肥して喜んでおります。此の喜び、うれしさは、神様御出張り下さったか、親に会うたと申そうか、何ともたとえ様もなく喜びました」とあるように、入獄という「節」の中にも喜び勇んで教祖の「ひながたの道」に徹し、その勤めぶりは、獄中も教会生活も、また、何処へ行っても、その信仰態度には少しも変りはなかったので、獄吏も教戒師の僧侶も尊敬の念を禁じ得なかったという。
留守中の幼い子供達(男子5人)には、各々に母らしい細やかな心遣いを手紙にしたためて励ましている。弾圧と迫害の厳しい当時のことである、幼い子供とて容赦なく冷たい世間の視線をあびせられたであろう。我が子を思う心情が痛いほどその手紙の中からくみ取れる。北陸分教会の道にとっては大きな「節」であったが、4代会長は、「成って来る理は天の理」として喜び勇んで勤めるよう、部内一同を励ました。
大正12年8月、4代会長は病床の身となり、一時は危篤に陥ったが不思議な御守護で助かった。しかし、翌13年10月、「教祖40年祭」と、「においがけ、おたすけ」に回っていた4代会長夫人はるが出直した。この「節」を乗り越えて教祖40年祭活動としての教勢倍加運動は推進され、大正15年末までの5年間に33カ所の教会が設置され総数62カ所となった。
昭和5年(1930)10月、教祖50年祭並びに立教100年祭への活動が発表され、教会は全力を挙げて活動に参加した。昭和11年、12年と両年祭活動を盛大につとめ終え、翌13年3月25日、4代会長は69歳の生涯を閉じた。同年5月27日、小原万斉(4代会長の5男)が5代会長に就任した。翌14年10月20日、創立50周年記念祭と会長就任奉告祭が執行された。次いで昭和15年に至り、新教規に基づいて、郡山大教会から分離昇格の議が提示され、同年10月24日付で、本部から分離昇格の許しを得た。
翌16年6月6日、2代真柱を迎えて大教会陞級奉告祭を執行。当時の部内教会は90カ所、布教所は67カ所であった。その後第2次世界大戦がすすみ、17カ所の教会が全焼し、1カ所が半焼という被害を蒙った。
戦後の歩み
終戦後、「復元」の活動と共に教勢も伸展し、昭和24年4月9日には盛大に創立60周年記念祭を執行。翌25年6月信者詰所開設の議がまとまり、翌7月天理市川原城区内に敷地を求め、同26年郡山詰所から移転し、28年1月には本館その他も完成した。
教祖70年祭も盛大に勤め終えてから昭和33年に至って、神殿及び附属建物の改築の議がまとまり、同年12月26日付で本部の許しを得て着工、途中昭和34年9月伊勢湾台風のため棟上げの出来た神殿が倒壊するという大節に会ったが、同年11月青年会北陸分会総会に出席された中山善衞青年会長より激励の言葉を頂き、部内「一手一つ」に力を合せて普請に奮起し、昭和35年12月9日2代真柱名代として中山善衞のお入込みを頂き、創立70周年記念祭と共に神殿落成奉告祭を執行した。
引き続き1カ月後の翌36年1月24日には2代真柱のお入込みを頂いた。2度の棟上げと2度続けてのお入込みを部内一同喜んだ。昭和38年には、本部の許しを得て、信者詰所の移転及び増改築がなされた。
昭和40年7月14日、中山善衞たすけ委員長が、北海道方面を巡教されるにつき、北陸部内高台分教会にもお入込みとなった時のことである。小原万斉(5代会長)は、出迎えに行き、苫小牧駅で特急に乗って暫くして身上(脳溢血)になった。走る列車の中でたすけ委員長により「おさづけの理」を取次いでいただき、危篤に陥っていたが、奇跡的にたすけられた。
5代会長の以前からの丹精により、この年北陸大教会として初めての海外教会がブラジルに設立された。
昭和41年教祖80年祭を盛大に勤め終え、5代会長夫妻は海外布教の先頭に立って、北陸部内を励まし、数度の海外巡教を通じて各地に「ようぼく」が誕生した。
昭和48年7月26日、鉄筋コンクリート4階建の第26母屋北陸大教会信者詰所が新築落成され、真柱を迎えて披露した。
同8月、5代会長辞任により、同月26日付、本部の許しを得て、6代会長に小原常夫(5代会長の長男)が就任した。以後教祖90年祭活動を通して、教祖100年祭目指して、6代会長を中心に部内一手一つに教会内容充実を目指して全ての活動を集中した。
昭和57年12月13日、5代会長夫人志寿恵が急に出直した。
昭和58年8月15日、5代会長は18年前にたすけていただいてより福井教区長等幾多の勤めに励み、69歳の生涯を閉じた。この大節に際し、6代会長を中心として部内教会が心を合せ一段の成人を誓い合って教祖100年祭活動に奮起した。
